大島満吉(おおしままんきち)さん


1935(昭和10)年12月2日、群馬県生まれ。
1938(昭和13)年10月、満州で建設業を始めた父に呼ばれ、母と兄とともに満州へ渡る。
白城子、通遼で短期間暮らし、王爺廟(1943年に興安と改称、現・ウランホト市)に居を定める。
1941(昭和16)年4月、王爺廟(興安)在満国民学校に入学。
1945(昭和20)年8月11日、ソ連軍による空襲で、約1300人が避難を始める。
8月14日、葛根廟に近い山中でソ連軍戦車隊の襲撃を受け、約700人が犠牲になる。
さらに、集団自決で400人以上が死亡し、それに巻き込まれた2歳の妹を失う。
家族4人で逃避行を続け、9月末に新京へ到着。
物乞いをしながら、約1年間の避難生活を送る。
1946(昭和21)年9月8日、新京を出発し、葫蘆島からリバティ船に乗る。
10月3日、博多港に引き揚げる。

撮影日:2019(平成31)年4月16日

「少年時代」動画を見る(3分)
「避難行動」動画を見る(6分48秒)
「葛根廟事件」動画を見る(11分03秒)
「新京へ向かう」動画を見る(10分38秒)
「新京での避難生活」動画を見る(4分14秒)
「帰国」動画を見る(58秒)
「中国人への感謝と慰霊」動画を見る(2分03秒)

丸澤一也(まるさわいちや)さん


1930(昭和5)年2月、東京都生まれ。
1944(昭和19)年3月、満蒙開拓青少年義勇軍に志願し、内原訓練所(茨城県)に入る。
1945(昭和20)年3月、内原訓練所を出発し、満州(現・中国東北部)の勃利訓練所に入る。
5月、遼陽に移り、383部隊の後方要員として農作業や警備などを行う。
8月中旬、大人から終戦を知らされる。
9月中旬、義勇隊としての団体生活が危険になり、分散して日本人家庭に同居させてもらう。
遼陽の義勇隊は自然解散となる。
食料を確保するため、満州人農家の手伝いや、闇市での商売をしながら、避難生活を続ける。
1946(昭和21)年7月、葫蘆島から福岡県の博多港に引揚げ。

撮影日:2016(平成28)年7月15日

「内原訓練所」動画を見る(6分26秒)
「満州・勃利訓練所」動画を見る(6分01秒)
「遼陽に派遣」動画を見る(2分57秒)
「ソ連参戦と国共内戦」動画を見る(3分46秒)
「闇市での売買」動画を見る(5分26秒)
「帰国」動画を見る(7分18秒)

土屋洸子(つちやひろこ)さん


1933(昭和8)年1月、鳥取県生まれ。
1936(昭和11)年、父が満州(現・中国東北部)・公主嶺の農事試験場に赴任のため、家族で公主嶺に移住。
1945(昭和20)年4月、新京(現・長春)の敷島高等女学校へ進学し、寄宿舎に入る。
8月、ソ連軍の爆撃を受け、寄宿舎から公主嶺の両親の元に戻り、公主嶺で集団避難生活を送る。
1946(昭和21)年7月、父が技術留用者となったため、両親の引揚げが許可されず、妹と2人で日本人引揚団に加わる。
7月末、葫蘆島から福岡県の博多港に引揚げ。

撮影日:2016(平成28)年7月5日

「公主嶺という街」動画を見る(4分09秒)
「小学校と高等女学校」動画を見る(4分23秒)
「ソ連軍の侵攻」動画を見る(5分49秒)
「避難生活」動画を見る(9分17秒)
「妹と二人での引揚げ」動画を見る(5分40秒)
「帰国」動画を見る(6分06秒)

吉田勇(よしだいさむ)さん


1935(昭和10)年9月、樺太・敷香生まれ。
終戦間際になって、樺太防衛のため父が義勇軍に、兄が鉄道輸送隊に動員される。
1945(昭和20)年8月17日、母と6人の子どもたちで、敷香から大泊に列車で移動。
8月21日、第二新興丸に乗船。
22日、ソ連軍の潜水艦の攻撃を受けて破損するが、北海道の留萌港にたどり着く。
家族で甲板にいたため運良く助かったが、他の乗客の悲惨な光景を目の当たりにした。
同様に攻撃を受けた小笠原丸、泰東丸は沈没し、多くの民間人が犠牲となった。(三船殉難事件)。

撮影日:2016(平成28)年7月5日

「小学校時代」動画を見る(8分44秒)
「樺太の気候」動画を見る(2分03秒)
「父の応召とソ連軍侵攻」動画を見る(4分02秒)
「樺太からの引揚げ」動画を見る(6分04秒)
「第二新興丸に乗船」動画を見る(8分47秒)
「帰国」動画を見る(5分59秒)

石井章(いしいあきら)さん


1935(昭和10)年12月、東京都生まれ。
1945(昭和20)年6月、気象台に勤める父が満州(現・中国東北部)の新京(現・長春)に
転勤したため、一家で移住。
8月、ソ連軍の侵攻から逃れ、朝鮮・新義州や満州・安東で避難生活を送る。
1946(昭和21)年10月、父が技術留用者となったため、両親の引揚げが許可されず、
兄と2人で父の同僚を保護者にして、日本人引揚団に加わる。
10月17日、葫蘆島から引揚船に乗るが、兄は翌朝、船中で病死。水葬に立ち会う。
10月末、福岡県の博多港に引揚げ。

撮影日:2015(平成27)年10月27日

「東京から新京へ」動画を見る(6分25秒)
「安東で」動画を見る(11分11秒)
「引揚げと兄の死」動画を見る(6分52秒)
「ひとり日本へ」動画を見る(4分18秒)

手塚元彦(てづかもとひこ)さん


1933(昭和8)年9月、 満州(現・中国東北部)・奉天(現・瀋陽)生まれ。
1945(昭和20)年8月15日、奉天で終戦を知る。
9月、父親はソ連軍によりシベリアに抑留され、翌年栄養失調で亡くなる。
1946(昭和21)年6月、母親が奉天で病死する。その後、兄妹で、孤児院に入る。
年長者だったため、孤児院で亡くなった子どもたちの遺体運びなどをする。
9月、妹2人を連れて、葫蘆島から長崎県の佐世保港に引揚げ。

撮影日:2014(平成26)年2月19日

「平和な奉天の暮らし」動画を見る(3分13秒)
「太平洋戦争開戦から終戦まで」動画を見る(6分16秒)
「父の抑留と母の死」動画を見る(7分43秒)
「孤児院での生活」動画を見る(4分24秒)
「兄妹だけの引揚げ」動画を見る(7分51秒)

田中信子(たなかのぶこ)さん


1939(昭和14)年3月、満州(現・中国東北部)・黒龍江省生まれ。
新潟県から満州に渡った開拓団で最初の子どもとして生まれる。
1945(昭和20)年8月、開拓村で終戦を知る。
10月、匪賊に襲われ母を失い、自身も肩を負傷する。
その後、祖父ら家族5人でハルビンまで徒歩で逃避行。
ハルビンから列車で満州を南下。
1946(昭和21)年、葫蘆島から京都府の舞鶴港に引揚げ。

撮影日:2014(平成26)年11月16日

「満州での暮らし」動画を見る(2分48秒)
「終戦時の混乱」動画を見る(3分33秒)
「匪賊の襲来」動画を見る(6分35秒)
「避難民生活」動画を見る(6分51秒)
「引揚船にて」動画を見る(4分19秒)
「帰国」動画を見る(5分32秒)

加藤正喜(かとうまさき)さん


1931(昭和6)年2月、石川県生まれ。
1943(昭和18)年、父が関東軍に配属となり、満州(現・中国東北部)の公主嶺、新京(現・長春)、奉天(現・瀋陽)へと移り住む。
1945(昭和20)年8月8日、平壌(現・ピョンヤン)に移動。
15日、平壌高等女学校で終戦を知り、その後、集団避難生活を続ける。
その間、石炭運び、遺体運び、傷病者の看護などをする。
1946(昭和21)年7月、家族6人で平壌から京城(現・ソウル)へ1週間徒歩移動。
京城から列車で仁川へ。8月、仁川から福岡県の博多港に引揚げ。

撮影日:2014(平成26)年11月15日

「転校が続いた少年時代」動画を見る(7分57秒)
「平壌での避難民生活」動画を見る(15分01秒)
「朝鮮半島を縦断」動画を見る(5分16秒)
「帰国」動画を見る(4分18秒)

福岡澄子(ふくおかすみこ)さん


1936(昭和11)年4月、満州(現・中国東北部)・大連生まれ。
1939(昭和14)年5月、貿易商社に勤める父の転勤先パリに移る。
1944(昭和19)年8月、連合国軍の攻勢に伴い、パリからベルリンへと逃避。
1945(昭和20)年5月、ソ連軍の護衛により、ベルリンからモスクワへ。
さらに、シベリア鉄道で満州へ向かう。
奉天(現・瀋陽)で避難生活を送り、そこで終戦を知る。
1946(昭和21)年7月、葫蘆島から山口県の仙崎港に引揚げ。

撮影日:2014(平成26)年2月10日

「フランスにて」動画を見る(9分39秒)
「ドイツでの避難生活」動画を見る(9分51秒)
「満州での避難生活」動画を見る(5分29秒)
「満州からの引揚げ」動画を見る(4分44秒)
「帰国」動画を見る(1分47秒)

山村文子(やまむらあやこ)さん


1922(大正11)年3月生まれ。
1942(昭和17)年5月、父の仕事の関係で満州(現・中国東北部)チチハルへ。
1945(昭和20)年8月15日、1歳7ヶ月の子どもと二人で貨車でハルピンへ。
泥水ばかりを飲む、難民生活を経験。
その後1ヶ月かけて長春へ着くが、まもなく子どもを亡くす。
重労働をして生計をたてた。辛かったが中国人はとても親切だった。
1946(昭和21)年9月、帰国。

撮影日:2009(平成21)年11月25日

「心に残ることば」動画を見る(1分37秒)

平和祈念展示資料館 (総務省委託)