元兵士、抑留体験者、引揚体験者の語り部が自身の体験を語ります。

手塚元彦(てづかもとひこ) さん  引揚体験者


「奉天から幼い妹2人と引揚げ」

  • 4月29日(土・祝)  14:00~

■■プロフィール■■
昭和8(1933)年9月、満州(現・中国東北部)・奉天(現・瀋陽)生まれ。
昭和20(1945)年8月15日、奉天で終戦を知る。
9月、父親はソ連軍によりシベリアに抑留され、翌年栄養失調で亡くなる。
昭和21(1946)年6月、母親が奉天で病死する。その後、兄妹で孤児院に入る。年長者だったため、孤児院で亡くなった子どもたちの遺体運びなどをする。
9月、妹2人を連れて、葫蘆島から長崎県の佐世保港に引揚げ。

大矢東(おおやあずま) さん  元兵士


「戦闘をかいくぐって冬山の逃避行」

  • 4月30日(日)  14:00~

■■プロフィール■■
大正13(1924)年11月、神奈川県生まれ。
昭和19(1944)年9月、繰上げ徴兵により満州(現・中国東北部)・東寧の
第1国境守備隊に入隊。
昭和20(1945)年3月、下士官候補学校砲兵科に入り、東寧の砲兵陣地に
配属される。
8月9日のソ連軍の侵攻を受け、戦闘を繰り返し、食料を探しながら逃避行を続ける。
昭和21(1946)年5月、逃避行中、八路軍(中国共産党軍)に捕まり、
この時初めて終戦を知る。9月、葫蘆島から長崎県の佐世保港に復員。

遠藤尚次(えんどうしょうじ)さん  抑留体験者


「シベリアで亡くなった戦友への想い」

  • 5月3日(水・祝)  14:00~

■■プロフィール■■
大正15(1926)年2月、神奈川県生まれ。
昭和19(1944)年1月、東部第62部隊に入隊後、中国・済南の
独立歩兵第111大隊に配属。
昭和20(1945)年7月、朝鮮・咸興に移動。
終戦後、ソ連軍による武装解除の後、船でウラジオストックに運ばれ、
極東地方のイマン(現・ダリネレチェンスク)で抑留生活を送る。
抑留中、森林伐採作業、農作業等に従事。
昭和23(1948)年5月、ナホトカから京都府の舞鶴港に復員。

吉田勇(よしだいさむ)さん  引揚体験者


「ソ連の潜水艦に襲われて~三船殉難事件で見たもの」

  • 5月4日(木・祝)  14:00~

■■プロフィール■■
昭和10(1935)年9月、樺太・敷香生まれ。
終戦間際になって、樺太防衛のため父が義勇軍に、兄が鉄道輸送隊に
動員される。
昭和20(1945)年8月17日、母と6人の子どもたちで、敷香から大泊に
列車で移動。
8月21日、第二新興丸に乗船。22日、ソ連軍の潜水艦の攻撃を受けて
破損するが、北海道留萌港にたどり着く。
家族で甲板にいたため運よく助かったが、他の乗客の悲惨な光景を目の当たりにした。
同様に攻撃を受けた小笠原丸、泰東丸は沈没し、多くの民間人が犠牲と
なった。(三船殉難事件)。

加藤正喜(かとうまさき)さん  引揚体験者


「平壌での集団避難生活」

  • 5月5日(金・祝)  14:00~

■■プロフィール■■
昭和6(1931)年2月、石川県生まれ。
昭和18(1943)年、父が関東軍に配属となり、満州(現・中国東北部)の
公主嶺、新京(現・長春)、奉天(現・瀋陽)へと移り住む。
昭和20(1945)年8月8日、平壌(現・ピョンヤン)に移動。
15日、平壌高等女学校で終戦を知り、その後、集団避難生活を続ける。
その間、石炭運び、遺体運び、傷病者の看護などをする。
昭和21(1946)年7月、家族6人で平壌から京城(現・ソウル)へ
1週間徒歩移動。京城から列車で仁川へ。8月、仁川から福岡県の博多港に
引揚げ。

成田富男(なりたとみお)さん  抑留体験者


「14歳の満蒙開拓青少年義勇軍」

  • 5月7日(日)  14:00~

■■プロフィール■■
昭和4(1929)年12月、兵庫県生まれ。
昭和20(1945)年5月、満州開拓青年義勇隊の隊員として
満州(現・中国東北部)の孫呉訓練所に入る。
終戦後、シベリアのセレトカンで8ヶ月の抑留生活を送る。
抑留中、森林伐採作業に従事。
昭和21(1946)年4月、オルレンブルグの収容所に移され、建築作業等に従事。
昭和23(1948)年11月、ナホトカから京都府の舞鶴港に帰国。

平和祈念展示資料館 (総務省委託)